耳に染みついたストコフスキーの演奏だ。
スコアを離れても、断頭台への行進や怒りの日々のフレーズが頭の中からから離れない。
《幻想交響曲の「毒」》
作曲家がこの曲に添えた解説を久しぶりに読み返してみた。
第1楽章 夢・情熱
最初、彼は魂のつかれを、漠然とした渇きを、うす暗い憂うつを、そしてあてのない喜びをおぼえる。それらは、彼が恋人に出会う以前に経験したものである。それから彼女によって霊感された爆発的な恋愛、精神錯乱した苦悩、やさしさへの復帰、宗教的な慰めがおこる。
第2楽章 舞踏会
舞踏会の時、さわがしさと、華やかなお祭りさわぎのさなかにおいて、彼は再び恋人を見出す。
第3楽章 田園の情景
田園における夏の夕方、彼は二人の牧人が羊飼いの笛でおたがいに呼び合っているのを聞く。このような環境の中での田園的なデュエット、風によってやわらかくゆれる木々のおだやかなざわめき、最近彼に知られるようになった希望へのある根拠――これらのものがすべて一つになって、彼の心はおだやかな静けさによってみたされ、彼の空想には明るい色彩がつけられる。しかし彼の恋人があらためて現れ、けいれんが彼の心におこり、そして彼は暗い予感によってみたされる。もしも彼女が彼をすてたならば? 牧人の一人だけが彼の田園的な歌を再びはじめる。陽は落ちる。遠くに雷鳴がひびく――孤独――静寂。
第4楽章 刑場への行進
彼は恋人を殺したことを夢見る。彼は死刑を宣告され、刑場にひかれる。その行列には、ある時にはゆううつで荒々しく、またある時は荘重で華やかな行進曲が伴う。さわがしい爆発は直ちに規則正しい歩みの重々しいひびきによって続けられる。最後に、愛への最後の思いのように固定観念が現れるが、それは斧の落下によって切りとられる。
第5楽章 ワルプルギスの夜の夢
彼は魔女の祝日――それは彼自身の埋葬でもあるのだが――に出席していると思っている。それは、幽霊や魔法使いやあらゆる種類の化け物のおそろしい群によって囲まれている。無気味な音、うなり音、キーキーいう笑い声、遠くからの叫び声、それらにまた他のものが答えているように見える。彼の恋人の旋律が聞こえてくる。しかしそれは、気高さやつつましさを失っている。そのかわりそれは今やいやしい踊りの調子、つまらないグロテスクなものとなっている。彼女は魔女の祝日にふさわしい喜びの叫びの挨拶を受けて到着する。彼女は悪魔の躁宴に加わる。そこで葬式の鐘、「怒の日」(Dies irae)のこっけいな旋律がひびく。魔女の踊り。その踊りと「怒の日」が一緒になる。
以上、全音楽譜出版社 『ベルリオーズ 幻想交響曲 作品14』解説(諸井三郎著)における翻訳を引用
描写される情景が浮かんでくる。
その印象はかつてこの曲を聴いていた思春期の頃とは違った。
魔女の宴に現れる女性の姿はとても恥ずかしい姿で描写されていて、
自分を振った女性をこうまで描くか?という疑問を抱いてしまう。
音楽だから見逃されもしたのだろう。他の表現手段ならどうだったろう。
音楽でどんなエロスやバイオレンスを描写しても、子供は聴いちゃいけない、
なんてことにはならない。絵画だとか、映画だとか、目に見える形で
表現されたとしたら、さぞかしおぞましかろうと想像される。きっと
高尚な趣味としての扱いを受けることは無かろう。
かつてこの曲を聴いていた頃は、理性を失うほどの”激情”こそが
ロマンなんだと思っていた。オケでコンマスをやっていた友人に
ベルリオーズを聴いていると話したら、「なんて下品な」と一言で
切り捨てられたが、ベルリオーズの”激情”を肯定的に見ていた
その時の僕には、友人の言葉が理解できなかった。
だが、”激情”はもう御免したい歳になったせいだと思うが、
今の僕にはある種の「毒」として感じられた。
それにつけても、第4楽章、第5楽章は狂っている。
《ベルリオーズのどこがいいのか?》
じゃあ、ベルリオーズのいったいどこがいいのだ?
ベルリオーズというと、ベートーヴェン以降、フレームワークが
出来てしまい行き詰まっていた交響曲の世界にブレークスルーを
もたらすという偉業を成し遂げた音楽史上の革命家だ。
ブラームスとはまた違った意味で、ベートーヴェンを継ぎ、
そして次代を開いた。
標題音楽、固定楽想という新機軸をもたらした音楽史上の功績は大きい。
標題音楽はリストやR・シュトラウスの交響詩に、固定楽想はワーグナー
のライト・モチーフにそれぞれ影響を与えている。
とまあ、一般論を言うとこんなところだ。
倉田わたるさんの解説
ネットでいろんな解説を当ってみたが、倉田わたるさんの
『新・ベルリオーズ入門講座:第1講 幻想交響曲 幻想交響曲 − ある芸術家の生活の挿話(1830)(最終更新日:1998.2.5)』を読んでようやく理解できた。
倉田さんは、一般的な話から一歩進んで解説をしてくれている。
幻想交響曲の真の“意義”は、以下の三点に絞られるのではなかろうか。即ち、「コンサートホールへの劇場感覚の導入」、「様式と表現の多様性」、そして、「独創的なリズム」。
『新・ベルリオーズ入門講座:第1講 幻想交響曲 幻想交響曲 − ある芸術家の生活の挿話(1830)』より引用
入門講座ということになっているが、かなり深い。圧倒されてしまった。
僕の理解、解釈は今のところ、倉田さんのところに書かれているもの以上にはなりそうにないので、これ以上は書かず、倉田さんの引用を紹介するにとどめておく。
<省略>最も多感でハイな時期のベルリオーズの芸術受容体験をざっと眺めてみれば、僅か数年の間に、「魔弾の射手」初体験、シェークスピア(ロメオとジュリエット)初体験、ベートーヴェン初体験(当時のパリでは、バリバリの前衛音楽)、ファウスト初体験、と続くのである。これは狂う。嵐といってもいい。この暴風雨を走り抜けた27歳の青年が、自らの失恋を契機に、自分を顧みない女に対する復讐の念を込め、彼女を徹底的におとしめたドラマとして書き上げたのが、幻想交響曲なのである。<省略>
《これから...》
幻想交響曲を聴かずにはいられなくなってきた。
まずは、2楽章くらいから聴き始めてみようか…
参考にした解説
- ベルリオーズ・幻想交響曲 −曲の概要− 関西シティフィルハーモニー交響楽団
- ”狂気”が開いたロマン主義の扉 ベルリオーズの幻想交響曲
- 『新・ベルリオーズ入門講座:第1講 幻想交響曲 幻想交響曲 − ある芸術家の生活の挿話(1830)』
リンク



おそらく僕が一番繰り返し何度も聴いた曲は、

